夜になると、
母の夕飯を用意する前に、
ふと顔を見てしまうことがあります。
元気そうに見える日もある。
いつも通りに話している日もある。
それでも、
わたしの中で、
小さく確認する癖がつきました。
「今日はどうかな」
声に出すほどではないけれど、
食べる前から、少しだけ様子を見ている。
今日は、
母の食事を用意しながら感じる、
その「見守りに近い感覚」の話です。
食べる前から、気にしている自分
何を作ろうか考えるより先に、
母の表情や声のトーンが目に入ります。
「今日は食べられそう?」と聞くほどでもない。
でも、見逃したくもない。
台所でお湯を沸かしながら、
居間の気配を、少しだけ感じ取ろうとする。
食事の準備は、
いつもと同じ作業のはずなのに、
気持ちの置き方が、少し変わってきました。
声をかけすぎない距離
心配だからといって、
何度も聞くのは違う気がします。
「大丈夫?」「食べられる?」
その言葉は、やさしさでもあるけれど、
相手に負担になることもある。
だから、
わたしは少し遠回りな聞き方をします。
「味、どうしよっか」
「お茶、あったかいのにする?」
答えの中に、
その日の調子が、にじむことがあるから。
見守りに近い感覚
食事を「用意する」って、
もっと単純なことだと思っていました。
おかずを作って、並べて、
食べてもらう。
でも今は、
用意しながら、どこかで見ています。
箸を持つタイミング。
最初に口に入れる量。
味噌汁を飲む速さ。
チェックしている、というより、
自然に目に入ってしまう。
それが、
わたしの中の「変化」なのだと思います。
食事が、会話になる瞬間
食べることは、
ただ栄養を取るだけではなくて、
その日の会話の入口にもなります。
「今日はこれ、食べやすいね」
「こっちの味、好きかも」
そんな一言で、
空気が少しやわらぐ夜があります。
母の反応があると、
わたしの緊張も、少しほどける。
食事は、
コミュニケーションの形にもなっているんだなと、
後から気づきます。
世話でも介護でもない位置
「介護」と言うほどではない。
「世話」と言うのも、少し違う。
ただ、
同居しているから、見えてしまうことがある。
元気がない日も、
ちょっとした不調も、
毎日の中に混ざっている。
その全部を、
名前をつけて整理する必要はないけれど、
無かったことにもできない。
わたしはその間の、
曖昧な場所に立っている気がします。
ちょっとした緊張感
何か大きな問題が起きたわけではありません。
でも、
「いつも通り」が続くことを、
少しだけ願っている自分がいます。
母が食べ始めるまでの時間、
わたしの中に、
小さな緊張がある。
そして、
食べてくれたら、
何も言わずに、ほっとしている。
それもまた、
この暮らしのリズムになってきました。
まとめ|“用意する”から“見守る”へ
母の食事を用意しながら、
「今日はどうかな」と様子を見るようになった。
それは、
心配を増やしたいわけでも、
結論を出したいわけでもありません。
ただ、
用意するだけだった時間に、
見守る感覚が、そっと重なってきた。
この変化を、
名前をつけるつもりはありません。
結論は出さず、
今夜も静かに、
いつもの食卓を整えています。